俺、金魚を飲んだことがあって。ひとつ年上の男の無邪気な声にはもう慣れていた。光が差し込むロビーの階段で呼び止められ、振り返ると彼は水を詰めた薄いビニール袋を手に提げている。深い朱色の絨毯を、スニーカーが踏んでいた。三角錐の形に膨らんだビニール袋の水の中に、ちらちらと白い幼魚が泳ぐ。

 屋台の縁日で掬った金魚をさ、家で飼い始めたら弱ってきちゃって。多分俺の世話が良くなかったんだろうけど。ああもう死んじゃうなあ、見てられないなあ、と思ったらたまんなくなっちゃって。金魚鉢を表すジェスチャーをしたかと思えば、それをどんぶりに見立てて飲み干すような仕草をする。彼の体が動くたび、ビニール袋の中の水がたぷたぷと揺れる。

 金魚がさ、喉でぴちって跳ねたんだ。だから喉越しはそんなに悪くなかったよ。そんな話をしながら、男は小ぶりなビニール袋を私の前に掲げる。薄いフィルムの中で泳ぐ幼魚を見つめ、男を見返す。

「二十歳の誕生日おめでとう、ヤマト」

 これプレゼント、と小さな魚を手渡してくる。私はそれを受け取り、礼を言った。贈り物について不満を述べるほど恥知らずではない。だが幾度かUターンしながら狭い水中を泳ぐそれを見ると、どうしても疑問や不審が浮かんだ。

「しかしヤマトも二十歳か〜。成人式とかあればいいのに」
「この世界では年齢という物差は意味を為さん。形だけの儀礼など不要だ」

 二十歳を超えようと超えまいと、実力のみ成熟していれば他と扱いが変わることはない。私が二十歳を迎えるにあたり、実力主義の世界もまたあれから三年の月日を重ねた。ポラリスの裁定を終えたヒトはその意識に埋め込まれた実力原理に基づき、世界を構成している。
 全体を見据えれば復興段階であることは確かだが、この世界はおおむね私が望んだとおりに歩んでいる。齟齬も綻びも目立つが、目の前に現れたこの世界はただ美しいと私は考えていた。

「それ、どうやって手に入れたと思う?」
「この魚か?」
「サカナって簡単に言うなよ。ジュンゴが紹介してくれたお店で貰ったんだ。もう店じまいするからって」

 以前は道楽息子に継がせようとしてたけど、災厄を境に一念発起して金魚を処分して新しく商売を始めるんだって。他にもいろいろ貰ってきたから、今度見せるとはしゃぐ男は、私のひとつ上なので今年で二十一だ。小さな魚でこれほど喜べるのも珍しい。その様が愛らしくて、私も思わず笑った。
 私の手の内の白い幼魚は、くるくると三角錐の中をめぐり続けていた。


 部下が手配したガラス細工の金魚鉢の中身が消えたことに気付いたのは、迫との深夜の打ち合わせを終えてからだった。自室に設えた桜材の飾り棚に、空の鉢が無造作に置かれていた。部屋の鈍い灯りの中で、私は彼のジェスチャーを思い出し、吐き気を覚える。しかしいくらなんでも人に贈ったものを飲みはしまい。ひとつひとつ部屋の灯りをつけ、彼の姿を探すと水音が聞こえた。

 浴室に隣した部屋にあるハイバックのソファには電子機器のパッケージが捨てられ、足元にはコードが乱雑に伸びている。一定の大きさのままの水音を辿り、ドアの開いた明るい浴室を覗く。白いパーカー姿の男が、タイルの上にしゃがんでいた。

「……何をしている?」
「あ、ヤマト。ちょうどいいや、今ろ過装置つけ終わったとこ」

 振り返った男は両腕の袖をまくっており、今しがたまで何らかの作業をしていたようだ。彼が指差すその功績は、白い浴槽の縁に据え付けられた黒い半透明の箱らしい。四角柱を横にして設置されたそれから伸びたパイプが、浴槽に張った水に漬かっている。繋がれたチューブやコード類は浴室の外に伸びており、ソファ周りにあるのはこれに関連したものとわかる。

 プラスチックでできた黒い箱の中で、無数の泡がぶくぶくと浮き立つ。部品の造形とさきほどの言葉から、水の汚れを除くものらしい。しかしなんでそんなものを風呂に、と思ったところで、水中を泳ぐ一筋の光に気付く。人口大理石の白の上に、小さな影が見える。

「……やはり君が持っていっていたのか」
「こっちの方が広くて絶対いいって、腹の金魚が言うからさ」

 ね、と水中の白い幼魚に問いかけるが、当然返事はない。Uターンばかりだった小さな魚はすいすいと三百リットルほどの水を泳いでいた。私が贈り物を狭い鉢に入れていたのが気に食わなかったのだろうか。そうならば浴槽などではなく、相応の水槽を用意させた。そう伝えても彼は返事をしなかった。

「夜は浴室の電気消して、朝は電気つけてあげて」

 餌や世話は俺がやるからさー、と勝手に人の部屋に上がりこんだ男は、散らかしたコード類をそのままに隣室に消えていく。私はしばらく浴槽の中の小さな魚を眺め、そして言われた通りに浴室の灯りを消した。



 彼は宣言した通りに給餌などを行っていた。すべて無断で私の部屋に入っての行動だったが、特に気に留める必要はない。私がする世話は、朝目覚めたら浴室の照明を点け夜になればそれを消す、それだけだ。浴槽を泳ぐ一匹のために朝と夜を作ってやる。

 数日経った今朝も、私は服を羽織りながら浴室まで歩く。まだ太陽も昇らない時間に、灯りをつける。水面が光を打った。静かに泡を作るろ過装置により、一匹には広すぎる浴槽の水は常に濁りなく保たれているようだ。小さなひれをはためかせ、細い肢体をくねらせて水をいなす様は美しいと思えた。これを贈られたときにはさほど興味も持てなかったが、彼の作ったこの環境下でこそ美しく見えるのかもしれない。
 
 だがその興味も五秒ほどで消え、部屋に戻り外出の支度を始める。私にはこの世界を維持するためにやらねばならないことが多い。この世界はけして完璧ではない。観賞魚にかまける時間が惜しい。カーテンを開けると、空色がかすかに朝へ移っている。服を整えてネクタイを締め、手袋を手にはめながらドアへ向かったところで、そのドアがひとりでに開く。

「あ、おはよう」
「おはよう。……朝からどうした?」
「今日は追いオリーブオイルならぬ追い金魚をしにきた」

 彼は意味不明なことをぬかしたが、その手にある三匹の金魚の入ったビニール袋を見ていわんとすることがわかった。彼は私の横を通り抜けて浴室を目指す。念のため私もそれについていった。
 浴室のタイルの上にしゃがみ込み、彼は浴槽の白い幼魚を見下ろす。浴室に灯りがあることについて私を褒めた。

「ちゃんと世話してるじゃん。愛着湧いてきた?」

 言われる通りにしているだけで、愛着と呼べるようなものかどうかはわからない。大体、この魚は愛情を知覚できない。そんな存在に感情をやって何の意味があるのか。私は返事をせずにそれは、と彼の手のビニール袋を指した。そこには色とりどりの金魚が狭い袋の中でUターンを繰り返している。

「やっぱり一匹だと寂しいかなと思って」

 私の言葉を受けて、男はビニール袋の中身をを浴槽の中に開ける。流れ出た赤や黒、そして金の小さな魚が、白い浴槽を泳ぎだす。白一匹だった浴槽に色が加えられると、途端に華やかな世界が広がる。

「やっぱ綺麗だねー、この浴槽も石なのかな、ぴかぴかで似合ってる」
「……確かに悪くは無いが、どうせなら水槽か池で飼えばいいだろう」
「このほうが愛着が湧くんだよ」

 ろ過機と逆にある、浴槽の栓のチェーンを触りながら彼が言う。水中で揺れるチェーンに興味を引かれたらしい白い幼魚が寄ってきて、それを見下ろす彼の横顔が愛しげに緩んだ。それはいつか見た表情で、この三年の間に失われていたものだった。

「君は魚が好きなのか?」
「うーん、俺は小さいものが好きなんだよ」

 あんまりでかいものは俺の腹には負えないからさ。彼の使う言葉が妙なのはいつものことだが、手ではないのかと一応指摘する。すると彼は私に人差し指を一本向け、それをくるりと回しながら子供のような調子で呪文を唱える。

「小さくなあれ」

 数秒間、私は息を止め、そして肺に溜めた空気はため息となって排出される。当然ながら私はそう言われても小さくはならない。彼はそんな私を見て、なんちゃって、と笑った。



 彼が私の部屋の浴槽で飼い始めた四匹の小さな魚どもは、日に日にその身を膨らませていた。成魚になりかけていく魚は、形がしっかりして身のツヤも美しい。私が手動で浴室の朝と夜を切り替える日々は続く。その間も彼は足しげく浴室に通った。
 一度、浴室で気まぐれに彼の手を取った。だが彼はそれを払いもしなかったが受け入れようともしなかった。ただ、大人の手になった、と笑った。それが褒めているのかどうかはわからない。

 彼に触れたり共寝したりする習慣は、実力主義の世界が成って半年ほどで終わった。彼の私に対する態度も気安さも変わらなかったし、世界を共に支配する立場も変わらなかった。だからそれで良いと考えるようになってからは、自発的に彼を求めようとはしなかった。もしかすると今でも彼の手を強引に引けば、その細い体を抱きしめられるのかもしれない。だがそう思うだけで、私は日々の業務に埋もれていた。

 実力主義の思想はあまねく世界の人間に備えられた。新しく生まれた子供も、誰に教えられるでもなくこの世界のルールを知っている。ジプスが抑えているものの悪魔は世界に溢れている。人は生存のために個々を磨き、社会の中で上を目指し続ける。敗北者も生まれ、社会に沈殿していくが、それらは摂理に則って浄化されていく。結果的に上澄みの部分の人間が世界を動かし、満たしていく。

 それでいいと思っていたある日、私が浴室を朝に変えた頃合だった。灯りもなくカーテンも閉じた暗い隣室に、彼が立っていた。彼はゆっくりとした足取りでこちらに進み、ソファに座る。浴室に用があったのでは、と思いながら近寄ると、独特の匂いが鼻をつく。照明のついた浴室から漏れる灯りだけの部屋で目を凝らすと、彼が何かを抱えていた。

「避難所のごみ置き場に居たんだ」

 目をぎゅっと瞑ってるみたい、もしかしたら一回も目を開けてないのかもしれない、と冷静な声が続く。灯りを点けるのは憚られ、私はソファの傍に立った。足元をろ過機のコードが這っている。

「……赤ん坊か」
「うん。生まれたばっかだと思う。何にも着てないし、へその緒もあるし」

 彼はタオルに包まれた新生児のものと思われる遺体を抱いていた。匂いは死臭だろう。硬直した遺体は、石のようにも見えた。彼の知り合いの子でもないのにそれをわざわざ拾いあげて私の部屋まで持ってきた男は、それでも落ち着いた様子だった。かえって不気味ではあったが。

「親に捨てられたのか」
「今朝見つけただけで、実際にそこに居た理由とかは何もわかんないよ。でもそうだろうな、この世界なら」

 この世界なら仕方ない、と彼が言う。そこに怒りも悲しみもなく、感情すらないように見えた。いやに淡々とした調子だが声に凄みがある。私は彼の座るソファの傍で立ち続けた。隣に座ろうとは、思えない。

「ヤマト、ここは実力主義の世界だ。肩書きも地位も関係ない、皆生き残るのに必死だ。だって誰も助けてくれないんだから。助けがなければ生きられないやつは、そもそも生きることを世界に許されていないんだ」
「……その代わりこれまでの価値観は失われ、どんな人間であれ才能と這い上がる力さえあればいくらでも己を高めることができる」
「うん、そうだ。だから才能がなくて這い上がることができない人は、できる限り生き抜けるように努力しないといけない。例えば弱点となるもの、負担になるものを削ぎ落としていく」

 そうして削ぎ落とされたものが、今彼の腕の中にある。生きることに必死な者には、弱い生き物を抱えてまで努力することを選ばなかったのだろう。サマナー能力の低い、または持たない下層の人間は軒並み物資が不足している。産んだところで、育てることは不可能だと思ったのか。それとも荷物を降ろして安堵したのか。それはわからない。
 そうして実力主義がそれをもたらしたかどうかも、まだはっきりとはしない。子供を捨てる親くらい、以前も当然に居たのだから。

「この子はもしかしたらお前を超えるような、稀代のサマナーになっていたかもしれない」
「戯言を」
「ああ、そうだ。この子はそうはならない。死んだから」

 もしかすると皆、子供を作るのをやめるかもしれない、と男は言う。繁殖という人間の強い欲求がある限り、新生児がゼロというのはありえないと私が言うと、納得していない顔で「そうだね」と笑う。

「どんな才能を持って生まれたって、最初に愛されなければ生きることはできない……それってこの子の実力不足なのか?」

 人が無ければ社会は発展しない。彼の抱える子供のように、次代を作る人間は多ければ多いほど良い。いずれ新生児を管理するシステムが必要になると考えてはいたが、それを実現できるのがいつになるかまでは私は答えられない。変革によって、人は生きる意志を備えて生まれてくる。だがそれは世界を存続させようとする意思とは似て非なるものに変わっていたのかもしれない。

「ヤマト、この世界も遅かれ早かれ、もう一度ポラリスが来るんじゃないか?」
「何を言っている」
「そうしたらお前はどうする? またポラリスを認めさせるのか? なんて言って?」
「君はこの世界はもう終わりだと、そう言いたいのか」

 ソファから立ち上がった彼が、死んだ赤ん坊を抱きながら私の横を通り過ぎる。死臭が鼻につく。ひどく重そうな石のような小さなそれを、なぜ抱いていられるのか不思議だった。

「十七歳のお前にまた会ってくる」

 彼はそう言って部屋を出て行った。カーテンの裾野から漏れる太陽の弱い光と、浴室から注ぐ人工の強い照明が足元でかすかに繋がる。世界は朝を迎え、そして彼は居なくなった。



 朝が過ぎて昼を通り夜に入っても、皆彼の姿を見ていないという。私との問答で世界に落胆したのか。そうなら彼は行動でそれを示すだろう。この世界を変えようと私に挑んでくるかもしれない。それで私が敗れれば、それもこの世界の理だ。結果的に世界が良き方向へ進めばこれ以上はない。

 夜も深くなり、菅野のあくびにより会議を散会させることにした。眠たげな菅野を抱えた迫と別れて自室に戻る。常のように浴室へ赴き、三百リットルの世界に夜を与えようと照明に手をかけた。そこで水音がないことに気付いた。あの黒い半透明の箱が無い。一歩浴室へ踏み込んで浴槽を見下ろすと、そこになみなみと注がれていたはずの水が無く、浴槽の白い底ががあらわになっている。

 チェーンが縁にかけられ、栓が抜かれていた。赤と黒と金の幼魚の姿は見えない。開いた排水口は大きく、あのくらいの小さい魚なら難なく吸い込まれてもおかしくない。

 世界を終わらそうとしていたのは、セプテントリオンでもポラリスでもない、彼だった。彼の言う愛着が湧くというのはこのことだったのか。簡単に世界から削除された三匹は、今頃息絶えているだろう。彼の好む小さなものたちは、管理された水の中でしか生きられないものだった。

 きち、と弱い水音が浴室に響く。栓に対してささやかな斜面を作る白い底に、白い小さな魚が横たわっていた。薄い尾がきちきちと跳ね、えらが大きく何回も浮つく。それが終わろうとしていることは誰が見ても明らかだった。俺、金魚を飲んだことがあって。明るい光の下で彼が言ったことを思い出す。
 私は破滅を予想していなかったわけではない。けれど破滅するとしても、あの腐った世界を続けるより生産的だと思った。

 ああもう死んじゃうなあ、見てられないなあ、と思ったらたまんなくなっちゃって。彼の照れているような声が懐かしい。私は両手で死に体の魚を掬う。私の手袋の熱に驚いたのか、それは身じろぎした。手を盃に見立て、それを口に運ぶ。噛まないように意識する前に、それはするりと私の喉を滑っていった。反射でえづいたが、冷たい体温が私の内に落ちていく。

 こんなことをしても何の救いにもならない。だが彼の気分だけは理解ができた。あの朝の無邪気な呪文は、彼の願いだったのかもしれない。ちいさくなあれ、と私を指差した彼は、私を丸呑むつもりだった。私の終わりを見たくなかったのか、世界の終わりを私に見せたくなかったのか、そのどちらかだ。

 腹に迎えた命はじきに終わる。それを抱えた私もいずれ終わるのだろう。空になった浴槽の前で、私は彼のいない世界を想った。

2013-09-23